言葉の暴力

It's a blue Monday

憂鬱な月曜の朝は
すっきりしないサッカーの試合のせいで
一段と気持ちが暗くなるのだった。


ジダンのラストダンス。


それは、さぞかし華やかな舞台となるはずだった。
いや寧ろ、結果に関係なく美しいものとなる確信さえあった。
しかし、神様は老獪で、
ある一人の心無いイタリア人でもって
生真面目なフランス人のダンスシューズを隠してしまった。


試合開始110分にそれは起こった。
世界中の人々が目を疑うような事が起こり、
彼は燦燦と輝く優勝カップの脇を通り、
沈黙とともに姿を消した。


もし彼がイタリアの名門クラブ・ユベントスにいなかったら。
きっとイタリア語が喋れずに、こうはならなかったであろう。
けれど彼の名声はこのチームから始まる。


もしリッピ監督が悪名高いダーティーなDFを起用しなければ。
そう思うとネスタの負傷が、本当に悔やまれる。
オイラはマテラッツィが以前から嫌いだ。


もしGKブッフォンが旧友を訴えることなく、諭すことが出来る人間だったら。
幾度このフランス人に彼は勝利をプレゼントされたことか。
PK戦のGKブッフォンの読みは全て外れていた。


多くの人が彼を批判し、この事を汚点と見なしている。


けれど、きっとこれらの言葉はジダンの耳には届かないであろう。
彼は、自分を見失うほど、サッカーを無心にしていたからだ。
悪質なファールではなくて、
そんな無心な自分のサッカーを冒涜する薄汚い言葉に
ただただ耐えられなかったに違いない。


手を出したら負けだという。
本当にそうだろうか?
言葉の暴力は物理的暴力に比べて楽観視されている。
言葉は、相手の精神に傷をつける。
しかし、それは、時に治る肉体的傷よりも性質(タチ)が悪い。
もし、ピッチの上で平等に裁かれることが当然ならば、
彼を傷つけた言葉に対しても、大いに裁かれる必要があったに違いない。
とはいえ、ジダンはこの言葉たちを訴える気など無いと思う。
彼は自分の心の中で深く傷つき、
そして大きな消化不良とともに
前を向くことを試みるのだろう。


ジダンのラストダンスは見れなかったが、
神様の小さな悪戯の下、
一人の人間が試練を乗り越えようとする機会を与えた。


こうして、僕の憂鬱なBlue Mondayは時計の秒針と共に継続していくのだった。


ちなみにフランス代表のニックネームは「le blue(ル・ブルー)」と呼ばれている。