国境なんて俺が消してやる!!

俺は何者だ!!




映画を観た。
「GO」
窪塚君です。
原作はまだ読んでませんが、
とりあえずDVDを観ました。
国籍。
オイラの周りにも沢山の素敵な在日の友人が居ます。
オイラはココロから彼らをリスペクトしています。
前に一度、選挙に一緒に行こうと誘った時に
とても残念そうに
「僕は選挙権が無いんだよ。」って言われました。
彼は生まれたときから日本に住んでいて、
ハングルも喋れないのに、在日なので日本国籍が無いらしい。
おかしな話だ。
日本語しから喋れず、日本にしか住んだことが無いのに、
日本人ではない。
勿論外国人登録証も持っている。
かといって韓国でも選挙権は無い。
が、しかし日本においても納税の義務はある。
公共施設を利用するにも制限がかかっているのに
その財源となる税金は払っているのである。
誰が考えても辻褄が合わない。不条理だ。


実はオイラも日本では生まれていない。
両親は高知県出身の日本人だが、
海外に転勤に行った先で生まれた。
しかもその転勤先がブラジルだ。
よって二十歳まで日本とブラジルの二重国籍だった。
3歳で日本に戻ってきたので
ブラジルの時の記憶は一切無い。
小学校の社会科の時間に
自分の母子手帳を持ってくるという授業があった。
みんな、日本の病院の日本語の母子手帳を持っていた。
けれど、オイラのは奇抜なコバルトブルーをした
ポルトガル語表記の母子手帳だった。
それからしばらくの間、とても苛められた。
母に何でブラジルで産んだんだって、責めたことも覚えている。
とりわけ静岡県の田舎だったので、
日本で生まれなかっただけで、
同級生はオイラを外国人とした。
勿論ポルトガル語も喋らないし、
日本での記憶しかないオイラでも
彼らはオイラを外国人と呼んだ。
悔しかった。
そしてオイラは再度外国に引越しとなった。
今度は移民の国カナダ。
そこには6年くらい住んだ。
この国はモザイク国家である。
国籍を気にしだしたらキリが無い。
けれど皆が自分の国を誇りに思っていた。
オイラもそこで自分が日本人であることに誇りを持っていた。
いつしか自分が外国人だと苛められたことも忘れていた。
けれど高校で何故か単身日本に帰国となった。
そしてそこでまた苛めが始まったのだ。
住んでいたところに日本人学校が無かったので
ほとんど日本語を忘れてしまい、喋れなかった。
オイラはまた外国人になった。
地獄の寮生活だった。
悔しくて悔しくて、本を沢山読んだ。
日本語を知りたくて沢山読んだ。
あいにく幼稚園からサッカーをしていたので、
そのサッカーだけが救いだった。
高校の3年生の時には10番を貰った。
京都のトレセンにも選ばれた。
その頃になると誰もオイラを苛めはしなかった。


けれど高校を卒業して間もなく成人式という行事があった。
オイラは日本とブラジルのパスポートを二つ持っていたのだが
いよいよどちらかに決める日が来た。
今から10年前の誕生日だ。
日本か覚えてもいないブラジルか。
みなが楽しそうに成人式をする日に、
オイラは中学校に行ってないので、
式に出られなかった。
それと引き換えに選択を迫る書類が送りつけられてきた。
どうしてオイラはすんなり日本人じゃないんだろう。。。
その時本当にそう思った。
必要書類に戸籍謄本とあったので
市役所に取りに行った。
その時初めて知ったのだが、
オイラの戸籍は小学校中退と記載されている。
義務教育を中退。。。
日本という国の狭さを痛感した。
自分が海外で誇りに思っていた祖国が
自分をすんなり国民と認めてくれていない。
そんな事実が悲しかった。
「国境なんて俺が消してやる!!」
作品の中で主人公がこう叫ぶ。
オイラも考えたあげくそう思った。
国境どころか社会を全否定しようと思った。
社会なんてエゴの塊。
集団ヒステリーだ。
20代の初期は、そんな思想がオイラを支配した。
とことん反抗してやる。
そう思った。
強い者に喧嘩を売る。
金は大嫌い。
義に尽くす。
ニーチェデカルト、武士道や葉隠れが
オイラの中で大暴れしていた。
けれど、それは次第に静寂に包まれた。
ナイフみたいに尖った感性が、
結局何も生み出していないことに気がついた。
何かしようとするコトが
またエゴなんだってことに気がついた。
オイラは自分の内側とは向き合わず、
外にばかり責任を求めていたってことに気がついた。
社会とかお金とか、名誉とか色欲とか。。。
結局自分はどうかってことをおざなりにしてた。
自分はどうか??
甘えん坊だ!!
間違いない。
自分を見つめることが怖くて外で暴れていたんだ。
そんな時、オイラを救ってくれたのが、
極北の自然だった。
作品の中でシェークスピアが引用されている。


『名前ってなに? バラと呼んでいる花を 
 別の名前にしてみても美しい香りはそのまま』


岡清という数学者もこんなことを書き記しています。


『スミレはただスミレのように咲けば良いのであって、
 そのことが春の野にどんな影響があろうとなかろうと
 スミレの預かり知らないこと。』


自然界に名誉も地位も無い。
国境だってお金だって無い。
かといってそれを否定するために
自然界のモノたちが立ち上がる訳でもない。
スミレはただ咲くのであって、
それが存在。
自分の体を痛めつけて自分を知ろうとすることが、
決して正しいことでない。
老子の話にも似たようなことが書いてあります。
弟子が蕾を実らした花を指差し、
「この花は咲くことが出来るのでしょうか?」
と問うたら、師匠は咲くと答えた。
ならばと弟子がこの花の蕾をむしって
「これであなたは間違いましたね。」と言った。
そこで師匠は、
「明日またここに来てみなさい。」と言った。
翌朝、弟子が訪れるとなんと無いはずの花が咲いていた。
師匠は驚く弟子に
「花の存在は己の愚かな思考よりも遥かに尊厳に満ちたものである。」
と説いたという話。
流れ行く雲。それさえも小さく見える空。
しかしそれよりも果てしなく広がる宇宙。
けれど、ニーチェは言う。
「汝、星降る夜を身に纏うと思うのならば、内にカオスを秘めよ」


存在とは、どこまで無限に広がる宇宙のようなモノ。
オイラにはそう思えて仕方が無い。

今日のお薦め

こんな本を教えて良いのかなぁって思うのですが、
けれど、いずれは必ず読む必要のある本です。
まだ理解が出来ないと思うのですが、
年月がたって哲人となった時に
この本の題名を思い出してくれればよいかなぁと思います。
よって今日は未来のみなさんにお薦めの本。

堕落論 (新潮文庫)

堕落論 (新潮文庫)